武田家はなぜ滅んだのか? ②三方ヶ原の合戦

みなさん、ご訪問ありがとうございます。

武田家はなぜ滅んだのか?

を検証していますが、
今回は、信玄最後の合戦であった
三方ヶ原の合戦について書いていきたいと思います。


武田信玄は自国の兵力を結集させて
西進作戦に踏み切り、
同盟関係であった織田家との決戦も視野に入れ、
まずは国境を接する徳川領へ侵攻します。


信玄は軍を3つに分け、
別働隊の山県昌景、秋山虎繁を信濃から南下させて
徳川家支城や織田家岩村城を攻略させます。


救援のために徳川家康は兵を出しますが、
今度は信玄主力が甲斐から西進して
家康を翻弄させます。


家康と同盟関係にあった織田信長は、
他勢力の連携による包囲作戦にはまり、
家康の要請のまま十分な援軍を送れないでいました。


徳川領の侵攻を許してしまった家康は、
本拠地である浜松城で信玄と籠城戦をする算段に取り掛かります。


しかし、信玄は浜松城を横目に通り過ぎ、
三方ヶ原台地へと進みます。

信玄の進行方向に堀江城があるので、
次の標的はこの城だと察した家康は、
籠城の策を撤回し、城から出て信玄を追って
祝田の坂を下る所を後方から強襲する作戦にでます。


しかし、これは信玄が家康をおびき寄せる作戦であり、
三方ヶ原台地に到着した家康が見たのは、
反転して家康が来るのを待ち構えていた武田軍でした。


退くに退けなくなった家康は、数的不利のまま信玄と野戦を繰り広げ、
完膚なきまでに叩きのめされます。

合戦は夕刻からだったため、
陣の配置でも徳川軍(織田の援軍も含む)が
西日を正面に受ける不利な状況だったようです。


僅かに家康に味方したのは、合戦が日没までの短時間であったため、
全滅は免れ
家康も九死に一生を得ます。



この三方ヶ原の合戦で、家康の敗因は

 ・信玄の有利な戦い方になるように誘導された
 ・すなわち、数的不利にもかかわらず、
  城からおびき出され野戦を敢行せねばならない状況に持っていかれた。
 ・戦場を選べられなかった。
 ・陣取りでも西日を正面に受ける不利に立たされた。

でしょうか。


徳川家康の経験した敗戦の中でも、
三方ヶ原の合戦は大敗北と言ってもいい負け方だったでしょう。

事実、家康は敗走している時に恐怖で脱糞し、
命からがら浜松城へ戻った際には、
自戒の為に絵師に自身の姿を描かせたと言います。


ただ、家康の凄いところは、この敗戦を糧にしたところでしょう。


三方ヶ原の敗戦を学んだ家康は、
その後起こる長篠設楽ヶ原の合戦や、関ケ原の合戦に活用されます。


次回は、長篠設楽ヶ原の合戦について書いていきたいと思います。

この記事へのトラックバック