武田家はなぜ滅んだのか?④長篠設楽ヶ原の合戦の敗因

みなさん、ご訪問ありがとうございます。

前回取り上げた長篠設楽ヶ原の合戦ですが、
今回は勝頼にとっての敗因を挙げていきたいと思います。



勝頼の敗因

① 長篠城を攻略しなかった(できなかった)

主力の織田・徳川連合軍をおびき寄せる為に長篠城を包囲していたのであれば、
主力が設楽ヶ原に陣取った際には後顧の憂いを断つ為にも、長篠城を落とし、
会戦へと進むべきではなかったのか?
(その方が退路の確保もできたのでは?)


② 数的に不利であった

長篠設楽ヶ原の合戦の前に、織田徳川方の別働隊が裏を回り、
長篠城を包囲している武田方の付城を奇襲し、これを撃破しています。
織田徳川連合軍は、別働隊を割いても、武田主力には数で上回っていた。

逆に言うと、勝頼は数的不利にもかかわらず、野戦を決行した。


③ 兵を二分した(更に兵力差が開いた)

武田にとっては敵方(織田・徳川連合)より
兵力差で劣っていたのにもかかわらず
更に軍を二分しなければいけなくなった。
この判断が致命傷となった。

④  情報が不明確だった?

もしかすると、勝頼は敵援軍が設楽ヶ原に集結した報を得た時、
もしくは、自身も設楽ヶ原へ到着した時点でも、
敵の全容が分からず、兵力を過小に見積もっていた?


⑤ 連勝に酔っていた?

長篠城は落とさなくても包囲しておけば大丈夫。
徳川の援軍は、動員兵力から見ても武田を上回らない。
もし仮に、数的不利であっても、武田兵1人は織田・徳川兵5人に匹敵する。
野戦に持ち込めば、圧倒的に武田の有利。

信玄から勝頼に代替わりして以来、
敗戦らしい経験をしていない勝頼だったので、
織田、徳川を過小評価し、
希望的観測と楽観が芽生えていたのか?


歴史に「たら、れば」はありませんし、
自分が勝頼の立場になった時に、
正しい判断ができるのかと言われると、
死ぬか生きるかの極度の緊迫した状況で
物事を判断しなければいけないので、
軽はずみな人物批判は避けるつもりです。


ただ、過去に起きた事象に対して、

「では、何が失敗の原因であったのか?」

を探ることは、歴史を学ぶ上で重要なことだと思っています。

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